さてさて、、先週に続いて午前様に仕事を終えてひとっぷろおば浴びまして(この時点で9時半ですがね 苦笑)
目指すはまたまたさきたま古墳群♪
今日こそははちまんやま〜っってことで気合を入れて出発です。
行田について確かこの辺を曲がって〜っと・・・ あれれ?
んじゃぁ こっちだべ〜・・・ これれ?
あ、、、そうだ! ここから〜っと・・・ むむむ。。。ナイやん
シッパイしちまったなぁ〜 じつは先週ナビに地点を登録し忘れてしまったために前回に迷ったままを繰り返してしまったのでした.。o○
見知らぬ街の似たような景色にハマってしまいました(;一_一)
そんなこんなでやっと確信のもてる景色に!
ありましたー!! (到着時にシッカリ登録)
管理棟のおばちゃんに挨拶して署名
パンフをいただいて懐中電灯を借り、いざシュッパーツ。。
当たり前のことなのに、扉が開いてることに気分はスッカリわんぱくキッズです 笑




とりあえず門前にて石笛奉納してのご挨拶。
浅間さんと八幡さんの両石碑にもご挨拶。
(浅間さんは、神仏習合式に仙元大菩薩なのに、八幡さんは何故か八幡大神です)

ここは中に入るとまったくの別世界で氣が違います。
多くは語りませんので、興味があったらぜひ一度訪れて自分なりに感じてみてくださいね〜! ムフフ〜(^^)v




しかし、古代の人ってこんな分厚くてどでかい天井石とかをどうやって乗せたんでしょうねぇ。。
ここは、補修工事されてますのでここまできれいな石組みがされているのかもしれませんね。
もとの状態がどんなものだったのか見たかったな〜 ってのが正直なところですが、剥き出しの石室古墳はそう多くはないということで贅沢はいえませんね。


古墳好きさんのサイトから参考になる情報拾ってきました。(ちと難しいかも・・)
昭和10年(1935)に実施された調査で後室から銅鋺(どうわん)、直刀の破片などが出土した。
さらに昭和52年(1977)から2年間かけて行われた補修工事の時、中室の床石の下から漆塗り木棺の破片が見つかった。
銅鋺は仏教法具の一つであるが、この鋺が副葬されていたことで、被葬者は仏教と縁のあった人物だったと推定できる。
漆塗り木棺は夾紵棺(きょうちょかん)と呼ばれるもので、遺体を納める棺(ひつぎ)の中でも最高級のものとされている。
これは、皇族や貴族の棺として使用され、全国でも奈良県を中心に数件しか見つかっていない(奈良県の牽牛子塚古墳(けごしづか)、聖徳太子廟、天武・持統天皇陵、阿武山古墳など)。
これは、八幡山古墳の被葬者がきわめて高貴な人物であったことを示唆している。
漆塗り木棺の破片は夾紵棺のものではないとする説もある。
かなりの量の破片が見つかっているが、過去に発見された夾紵棺に比べて厚さが薄すぎるため、何か他の漆塗り製品の破片ではないかという疑問である。
さらに、破片が見つかった場所が中室というのも気になる。
(棺は玄室の一番奥の部屋に安置するのが一般的な風習である)
こうしたことから、被葬者として注目すべき人物の名が浮かび上がった。
物部連兄麻呂(もののべのむらじえまろ)という人間で、彼の名は『日本書紀』などの正史には登場しないが、平安時代に書かれた聖徳太子の伝記である『聖徳太子伝暦』の中に登場する。
この伝記によれば、物部連兄麻呂は聖徳太子の舎人(とねり)として活躍した人物である。
仏教に惹かれて身を慎み、のちに在俗の信者となって太子に仕えた。
太子の死後、舒明天皇5年(633)に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に任命され、のちに小仁(しょうにん)の位(聖徳太子が定めた冠位12階の第4位)を賜ったという。
舎人とは、地方豪族の子弟が中央に出仕して、皇族の側近として身辺警護にあたる当時の制度である。
物部連兄麻呂が武蔵の国の出身者であるならば、伝記の記述は、舎人として存命中の太子に仕え、その死後、国造として生まれ故郷に赴任したことを語っている。
587年の物部−蘇我の武力抗争で物部守屋が殺害され、物部本宗家が滅亡したことはよく知られている。埼玉の物部氏が本宗家の滅亡を転機に、聖徳太子の側近として生き残る道を開いたというのであろうか。
『国造本紀』の中に志賀高穴穂朝(成務天皇)の御世に出雲臣の祖、名は二井之宇迦諸忍之神狭命の十世孫、兄多毛比命を以って、无邪志国造に定め賜う、とある。
この記述が史実を反映しているならば、出雲族のエタモヒが第13代成務天皇の時代に、无邪志国造として赴任してきたことになる。
だが、『高橋氏文』では、第12代景行天皇が安房の浮島にあった行宮に行幸した際、武蔵国造の上祖・大多毛比と知々夫国造の上祖が、共にその地に参り奉仕したと記されている。
この大多毛比がエタモヒと同一人とすれば、エタモヒはこの時までにすでに武蔵国に住んでいたことになる。
武蔵の国は広大だったため、大化の改新以前は、无邪志(むさし)、胸刺(む(な)さし)、知々夫(ちちぶ)の3つの地域に分けて、それぞれに国造が置かれた。
无邪志の国は、北部の荒川流域を支配する国であり、その中心は、埼玉県の行田周辺の古代埼玉(さきたま)地方や、東松山市周辺の古代比企(ひき)地方だった。
この地域には、6世紀になると埼玉古墳群の巨大古墳が築造されていて、有力豪族がいたことを証明している。
埼玉古墳群を築いた豪族がエタモヒの子孫たちであるなら、出雲系の氏族ということになるが、はたしてどうであろうか。
ちなみに奈良時代には氷川神社の祭祀は足立郡を地盤とした丈部(はせつかべ)氏が関与したとする説がある。
丈部直不破麻呂は恵美押勝の乱の鎮圧で軍功をあげた人物であり、神護景雲元年(767)には丈部一族7名が武蔵宿禰の姓を朝廷から与えられると共に丈部不破麻呂が武蔵国造に任命され、氷川神社の祭祀権を認められている。
と言うことですが、埼玉の国造が出雲系であることは、一之宮氷川大社や鷲宮神社他いろいろな神社の由緒・伝承などでも伝えているところですね。
そうそう、最近では鷲宮神社がアキバ系の聖地になりつつあるそうですよ〜。
聞けば萌え系マンガで鷲宮神社が舞台となっているのがあるそうなんですよ。
もっとも地元では、「さいきん変なのがウロウロしてる」とウワサになってるようですが、アキバ系にスピラーに・・・ ますます怪しさ満開ですねぇ 笑
上の文では、銅鋺は仏教法具の一つなので、被葬者は仏教と縁のあった人物だったと推定できる。とありますが、日本のみならず世界には仏教以前の古代から「鉢の呪術性」はあったんですよね。
モチロン各地を遍歴する仏教の修行僧の持ち物として外せない祭具として有名な“鉢”ですが、、、鉢に関する伝記や伝承は、役の行者のお話の他にも多く見られますね。
また、食器と見れば命を繋ぐための道具、奉げモノを乗せるために高価な材料でつくることもモチロンありますね。
しかしもっと深く大切な意味をこめた道具(祭具)としての呪術性として有名なところでは、
古代には、「再生の大なべ(Cauldron)」を祭具として持ち歩き、煮えたぎる大なべを使って「再生」の祈願儀式をおこなっていた記録などもあり、鉢及び椀型の器には『再生力』を与える聖なる器という側面もあるのです。

修験でも湯立て神事や釜鳴神事などがあります
※修験道では湯立神事と同様の作法を『湯加持(ゆかじ)』といい、水天や八大龍王を自分の身体に降ろして一体化したのちに熱湯を以つて心身を清め、煩悩や穢れ等を祓います。
銅鋺の他、須恵器や土師器などなどからも時代の考証がされているのでしょうが、やはりそれだけで仏教的な人物であったとするのはどうでしょうかねぇ。。
難しいことはわかんないけど、仏教にとらわれ過ぎて見過ごすものがあったら・・・ みたいにも思う偏屈モノなんですよ〜私メは。。。笑
(歴史や科学は異端者がいなければ解明されないという側面もありますでしょ 汗笑)
ってことで、前回見れなかった八幡山古墳の石室内を堪能して、お次はさきたま資料館にいってみましょう。
ここは、撮影禁止になっていましたが、私メ1枚撮ってきました。
埼玉古墳の多くには、壁石として房総石(穴の開いた砂岩)が使われているそうですが、東国から運んできたこともすごいことだし、その関係性も気になるところですが、

ここに展示してある房総石(左奥)はどう見ても【石笛】として使用されたものに見えてしまいます。
この資料館はおとな200円ですが、チケットをみると将軍山にも展示館があります。(両方の入館料で200円・当日限り有効です)
前回は、サラ〜ッと見て歩いたので、将軍山展示館の存在に気づきませんでしたが、今回また時間切れになりそうです。
ってことで、資料館受付で聞いてみると、「16時入館までです」とのこと。。(やっぱり時間的に厳しい・・)
しかーし、前回気付かなかった入り口だけでも確認しておこうと、早歩きで向かってみると・・・
(入り口は稲荷山古墳側から見た真裏に位置していますので、見落としても当然ですね)

時計を見ると16時15分、、、だめかなぁ〜と思いきや16時半まで(だったかな?)と書いてあります!
ってことで、無事間に合い中に入ってみると・・・


1階はこんな程度ですが、2階に上ってみると、そこは石室内部です!
副葬品と、被送者の人形がそのままの形で展示されていたのでした〜
ってことで、閉館前の静けさの中またまた撮っちゃいました 汗


暗く写ったコチラの写真には人形頭部にナニヤラタマユラな丸いモノが・・・



キレイに撮れてるだろう写真はこうして見るとピンボケです。


撮った後に石笛で鎮魂とお礼をしましたが、撮る前にしなきゃダメぢゃん!ってことでしょうかね 苦笑。
ってゆーか、、、ホントは【撮っちゃダメなんですよー!】
そんなわけで、無事に展示も見られて今回も土偶&ハニワのおみやげを買って、古代蓮の里に寄ってみましたが時間的にも花は閉じてますね。
コチラは、1400年〜 3000前の古代蓮(行田蓮)の他、世界中の41種類約10万株の花蓮があります。


ちょいと失礼! 汗


開花状態はこんな感じです
蓮は開花から3日程度しか花が楽しめませんが、これだけの数ですから、6月中旬〜8月中旬の午前中が見頃となってますのでまだまだ楽しめますよ。

目つきは悪いけど、人懐っこいこの子が出迎えてくれますよ
そんなこんなで帰路に着くわけですが、やはりこのあたりには地図にない古墳が点在していますね。
農家の屋敷森も多いのですが、ちょっと見るとその農家の裏山が古墳だったりします 笑


コチラは薬王寺裏にある古墳。ここはちょっと重いから私メとしてはお薦めはできません。。
古墳の形には円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳などがありますが、世界的に見て古来から築山で氣脈の調整や発生を行うことがある様ですね。
また、ストーンサークルや巨石遺構も祭祀の形態やつながりを見ていくと同じような系列にあるでしょうか?
多くの場合、大地の氣脈上に点在するツボに使用する(挿す)石の材質は石英成分の含有率が高い花崗岩などの石です。
古代人は石英(水晶)成分の特異な電磁気的な性質をわかったうえで意図的に用いていたのでしょうね。
また、花崗岩はマイナスイオンを多量に発生させる特性もあり、そのマイナスイオンが電気的にプラスの性質を持つ雑菌と結びつくと雑菌が死滅するなど細菌の活動が抑制されることで腐敗が抑えられるともいわれているそうで、ピラミッドの構造をみてもそれらを意識していたことが想像されますね。
そして、面白いことに花崗岩のマイナスイオン発生のメカニズムは、花崗岩の中に含まれている磁鉄鉱成分によるものだそうですよ。
花崗岩が風化すると砂鉄になるそうですけど、出雲の地が砂鉄の産地、花崗岩の豊富な地で、鉄とのかかわりから豪族の力関係の推移など古代史を読み解くのも面白いですよ。
鉄を制するものが国を治める。。。それはまたのちほど書くかもしれません【?】
さてさて、、話を横道のピラミッドに戻しましょう。。笑
これらは私メの知人の記録からのお話ですが、
日本にも、地元の人が『黒又(クロマンタ)』と呼ぶ標高280mの『ピラミッド型の山』がありますね。(コノ他いくつも人工築山とみられるお山がありますね)
調査によると『黒又山』はもともとは自然の山であったと思われますが、古代人の手によって階段状に整形され、中腹から山頂までの階段状の部分にはびっしりと白い石が積み重ねられていることがわかったんだそうですね。
また、山頂から約10m下に【石室】のような空洞のあることも確認されたそうですが、『シルベリー・ヒル(後で書きます)』と類似した【人工丘陵】であることもわかっているそうです。
この『黒又山』の山頂には神社がありますが、山頂は平らに整形され、ここでは縄文土器も発掘されていますが、この山の下にある『大湯ストーンサークル』で使われたのと同じ「石英閃緑ひん岩」の立石が置かれていることなどから、この黒又山の整形(築山)を行ったのと大湯ストーンサークルの建造者は同一の民ではないかとみられているそうです。
ではなぜ『黒又山』にわざわざ手を加え、その山の下に巨大なストーンサークルを作ったのかという疑問が出てきますが、それは『黒又山』の乗っている岩盤がカギで、こちらも石英質の花崗岩なんだそうです。
これは、エジプトのギザにある大ピラミッドの『王の間』などにもみられることで、内部の重要な部屋には花崗岩が使われていますが、花崗岩の石英結晶は圧力がかかることによって電磁気を発生するそうです。
ということで、黒又山の圧力による電磁気的な影響が周囲に及んでおり、その自然の恩恵を古代人は意識的に活用していたのではないかと言われているそうです。
(古代人は、石英質が発する特異な電磁気を、その技術力で(目的意識を持って)蓄電したり、強めたりしていたと考えることもできるそうです)
また、すぐ近くの大湯ストーンサークルの組み石の大半の『石英閃緑ひん岩』は、重さの平均は30kg、重いものでは 200kgの巨石もある岩だそうですが、遺跡から約7kmも離れた山の谷川からわざわざ運んできたらしいといわれています(もちろん縄文人がですよ〜)
やはり意図的に造られた聖なる空間であり、祭祀や発電所的な役割も担っていたのかもしれませんねぇ。。
電磁気などと小難しい話になっていますが、石英=(水晶)ですから、クオーツ時計の電気的な振動を考えればなるほど〜ってなもんですよね?(私メには難しい〜^^;)
これについての面白い実験結果がありますので、ついでに紹介しておきましょう。
『太陽』と石組みで強化された土地(ストーンサークルですね)のエネルギー場についての実験が本場イギリスでおこなわれたそうですが、オクスフォードシャーの「ロールライト・ストーンサークル」で行われた実験では『太陽の動き』とストーンサークル内の『場』の関係が調査されたそうです。
この実験によると、不思議なことに「日の出」の約30分前から、なぜかストーンサークル内では超音波を補足するセンサーの針が動き出すそうですよ。
そして、興味深いのはソノ超音波放射が「日の出」の約30分前、そして約10分前という2通りの開始時刻が認められ、太陽の動きに連動して約1時間放射が継続するそうです。
また、他のストーンサークルでも同様な結果が確認されたそうで、春分や秋分よりも夏至・冬至の日の方がその放射が強くなる傾向にあるそうですね。
やはり太陽信仰の冬至・夏至の祭祀には深い意味があったのでしょう。
(対照実験として、すぐ近くの普通の丘陵も調査したそうですが、そちらではこのような反応が認められなかったそうです)
この辺のことを知ったうえで、夏至や冬至に巨石遺構のある聖地に出かけてみると新たな発見があるかもしれませんね!
人間を取り巻くエネルギーには、古来より天・地・人の3種類あることは有名なお話ですが、これらのエネルギーをコントロールしようとしていた形跡が『山』の施設(人工築山)に認められるといいます。
「天の氣」を引き込むポイントは尖った場所で、砂漠のような平坦地では人工的に建造する必要性があるわけなんですよね。
そして、古代エジプトのピラミッドは、単なる王墓ではなかったと思われていますよね。(祭祀場としての天の氣を集める形態の効力にあやかる形で王を埋葬して永遠なる統治(チカラ・守護)を・・・ みたいなことですかね?)
じつは私メ、似たようなことをさきたま古墳群で感じていたのです。
山の多い日本において、わざわざピラミッド様の人工の山を造るにはそれなりの理由があると思っています。
そして、様々な古墳の形の移り変わりも単なる豪族ごとの趣味の範囲ではなかったと思います。
これらレイラインや古墳に関することは多くの方が研究されていますので、私メも少しそれらのサイト等を覗いてみようと思ってはいるのですが、なにしろ専門的なところは難しすぎて・・・ 汗
さて、、
平坦な場所では拡散してしまう天の氣を集めるための人工的な山、その代表的なものが、前述した「シルベリー・ヒル」と呼ばれる人造丘陵(標高約40m)です。

このシルベリー・ヒルを青銅器時代の大きな埋葬塚(古墳)と考えた考古学者R・J・C・アトキンソンが1960年代後半に発掘調査をおこなったそうですが、塚の中心部まで掘り進んでも青銅期文化の遺物はなにひとつ出なかったそうです。
そのかわり、青銅器時代よりかなり古い紀元前2400年頃のものであることが判明したそうで、おまけに発掘調査の結果、人造丘陵の構造までもが解明されることになったのはまさに予期せぬ大発見だったのですが、もとは高さ数フィートの天然の丘が土台となり、そこに古代人によって手が加えられていたことがわかったそうです。
その加工には、まず杭を緊密に並べてサークルを作り、泥炭を詰め、その上に土 → 粘土 →チョーク(石灰)→ 砂礫の層を、順に敷き詰めます。
こうして高さ4.5mの中空構造の塚が築かれ、その中空の塚の上に石灰の塊でできた大きな円錐形の土塚をかぶせてあります。
そして、最後の仕上げとして先の2つの土塚の上に蜂の巣状の六角形構造の内壁のある「階段型ピラミッド」を築いて完成させているそうです。


普通、天の氣を集める山が必要ならただ土を盛ればよいのでは?、と思われるでしょうけど、このような複雑な構造にすることで土地のエネルギーを調整できるらしいですね。(古代人畏るべし!ですね)
日本の研究者はこれらの築山様式効果を踏まえたうえでの古墳の調査などは行っているのでしょうかねぇ?
もしかしたら古墳には今わかってることよりもっともっとすごい発見があるのかもしれませんね。
ってことで、、古墳見学から大きくお話が逸れてしまいましたので、
古墳みやげの銅鐸&土偶&埴輪くんたちを紹介しましょう♪

(コノ他いろいろ種類がありますので、じょじょに全部揃えたいかも〜 土偶萌え〜♪ ナンチャッテ。。)
土偶は呪術の際に破壊されることで願掛けが完了(成就)すると云われていますが、破戒される箇所にもいろいろありそうに感じています。
多くの場合が女性を表していますが、地母神は殺すことで豊穣を齎すという言い伝えは世界中にありますね。
実は左足、左目が破戒されたモノはスピ的にみても目からウロコの深い意味があるのです。(でも、、、教えてあげないよッ ジャン♪ by ポリンキー)
ってことで、、、さきたま古墳群の巻 完.。o○