み〜つけた!
ココで問題です!
ココでって、、、まだ何も書いてないが・・・
これは誰でしょう?


浄不軽菩薩と書いてありますねぇ。
梵天が付いた結袈裟ですが、なにやら坊様のようないでたちですねぇ。。

浄不軽菩薩の説明です

じつはココ、お墓なんですよ
次のヒントは石像を挟んで反対側にあるコチラのお墓

奥さんの名前は『お新』さんですよ
私メ、このドラマの中の「お新」さんけっこうファンだったんですよ。
最近は毎回入浴してる「お銀」ちゃんよりもね 笑
ってなことを書けばもうおわかりでしょう?
そうです!
ココはこのお方のお墓なのであります。
・
・
・
・
・
・
・

親分!




本名は、松之草村・小八兵衛(常陸国・松之草村は現・茨城県常陸大宮市松之草・緒川村)
小八兵衛といっても「うっかり八兵衛」ぢゃアリマセンよ! 笑


詳細は後ほど・・・
書かないかも? 笑
追記
小八兵衛はもと盗賊の頭領で、一昼夜に三十里(約120km)を往来し、忍びの術に於いても卓越した優れた忍者であったといわれています。
後に捕らえられたのであるが、光圀公の尊徳をもって助命となったばかりか、一生涯二人月俸を給せられたので、その恩恵に非常に感激して、『自分の存命中は、決して御領内に盗賊は立ち入らせない』と誓ったと言うが、その言葉のとおり彼の存命中は、水戸領内には夜盗の心配はなかったと伝えられている。
また、小八兵衛は領内や隣国の動静変事を探り、光圀公に報告する間者(隠密)として活躍したので、義公は居ながらにして、領内の変事はもとより隣国の動静も知り得たという。
(今から約150年前の「石川久徴」著の「桃蹊雑話」に書いてあるそうです)
現在、小八兵衛の墓は、緒川村松之草公民館の近くの山の麓にあります。
【帰真禅山崇心】墓 元禄十一年戌寅五月二日歿と書かれている。
近年その傍らから、小八兵衛の女房の「お新」の墓碑ではないかと思われるものが発掘された。
【皈眞梅梢池春禅定尼霊位】元禄四年正月十一日歿と書かれている。
(お新は旧那珂郡戸田村(現那珂町)から来たと言い伝えられている)
一番下の写真にある紙漉場跡は、
資料によれば、寛政二年に水戸藩が藩外に売出した農産物の総額は9万9千両余りで、その中で和紙は3万1千両にのぼり、農産物総額の32%を占め、藩の財政を支える重要な産業であった。
そのため光圀公は、常に紙を大切にしていたが、城中の侍女たちは乱費に馴れ、改めようとしなかった。(大河ドラマ・篤姫では水戸はケチだといわれてましたね 笑)
そこで義公は、ある年の寒中に侍女達を松之草(現緒川村松之草)につかわし、紙すきの苦労を見せたのである。
寒中でもこの日は特に寒い日であった。
しかし、紙すきの人達は、冷たい北風に身をさらし、氷づくような寒水にはいって、手も足も真っ赤にして懸命に働いていた。
このようすを侍女たちは熱心に見て帰り、それ以後自分たちが日常使用している紙がいかに尊いものであるかを知り、たとえ一枚でも大切に使用したという。
この紙すき場跡は、松之草公民館の西100mのところにある。
このことは、水戸藩の学者、立原翠軒編「西山遺聞」や仙台藩の安積民斉著「民斉閑話」に書かれ、それらがよりどころとなり、明治33年(1900年)発行の尋常小学校用坪内雄蔵著「国語読本巻六」大正8年(1919年)発行の国定教科書「尋常小学校終身書巻三」に採用されている。
なお、奥女中たちの松之草来訪は、小八兵衛が光圀公に進言して行われ、女中たちの案内・世話なども小八兵衛たちがしたといわれている。
ココでって、、、まだ何も書いてないが・・・
これは誰でしょう?


浄不軽菩薩と書いてありますねぇ。
梵天が付いた結袈裟ですが、なにやら坊様のようないでたちですねぇ。。

浄不軽菩薩の説明です

じつはココ、お墓なんですよ
次のヒントは石像を挟んで反対側にあるコチラのお墓

奥さんの名前は『お新』さんですよ
私メ、このドラマの中の「お新」さんけっこうファンだったんですよ。
最近は毎回入浴してる「お銀」ちゃんよりもね 笑
ってなことを書けばもうおわかりでしょう?
そうです!
ココはこのお方のお墓なのであります。
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親分!




本名は、松之草村・小八兵衛(常陸国・松之草村は現・茨城県常陸大宮市松之草・緒川村)
小八兵衛といっても「うっかり八兵衛」ぢゃアリマセンよ! 笑


詳細は後ほど・・・
書かないかも? 笑
追記
小八兵衛はもと盗賊の頭領で、一昼夜に三十里(約120km)を往来し、忍びの術に於いても卓越した優れた忍者であったといわれています。
後に捕らえられたのであるが、光圀公の尊徳をもって助命となったばかりか、一生涯二人月俸を給せられたので、その恩恵に非常に感激して、『自分の存命中は、決して御領内に盗賊は立ち入らせない』と誓ったと言うが、その言葉のとおり彼の存命中は、水戸領内には夜盗の心配はなかったと伝えられている。
また、小八兵衛は領内や隣国の動静変事を探り、光圀公に報告する間者(隠密)として活躍したので、義公は居ながらにして、領内の変事はもとより隣国の動静も知り得たという。
(今から約150年前の「石川久徴」著の「桃蹊雑話」に書いてあるそうです)
現在、小八兵衛の墓は、緒川村松之草公民館の近くの山の麓にあります。
【帰真禅山崇心】墓 元禄十一年戌寅五月二日歿と書かれている。
近年その傍らから、小八兵衛の女房の「お新」の墓碑ではないかと思われるものが発掘された。
【皈眞梅梢池春禅定尼霊位】元禄四年正月十一日歿と書かれている。
(お新は旧那珂郡戸田村(現那珂町)から来たと言い伝えられている)
一番下の写真にある紙漉場跡は、
資料によれば、寛政二年に水戸藩が藩外に売出した農産物の総額は9万9千両余りで、その中で和紙は3万1千両にのぼり、農産物総額の32%を占め、藩の財政を支える重要な産業であった。
そのため光圀公は、常に紙を大切にしていたが、城中の侍女たちは乱費に馴れ、改めようとしなかった。(大河ドラマ・篤姫では水戸はケチだといわれてましたね 笑)
そこで義公は、ある年の寒中に侍女達を松之草(現緒川村松之草)につかわし、紙すきの苦労を見せたのである。
寒中でもこの日は特に寒い日であった。
しかし、紙すきの人達は、冷たい北風に身をさらし、氷づくような寒水にはいって、手も足も真っ赤にして懸命に働いていた。
このようすを侍女たちは熱心に見て帰り、それ以後自分たちが日常使用している紙がいかに尊いものであるかを知り、たとえ一枚でも大切に使用したという。
この紙すき場跡は、松之草公民館の西100mのところにある。
このことは、水戸藩の学者、立原翠軒編「西山遺聞」や仙台藩の安積民斉著「民斉閑話」に書かれ、それらがよりどころとなり、明治33年(1900年)発行の尋常小学校用坪内雄蔵著「国語読本巻六」大正8年(1919年)発行の国定教科書「尋常小学校終身書巻三」に採用されている。
なお、奥女中たちの松之草来訪は、小八兵衛が光圀公に進言して行われ、女中たちの案内・世話なども小八兵衛たちがしたといわれている。
